クロアチア出身の女性ギタリスト;アナ・ヴィドヴィチのリサイタルが30日(土)午後、前橋で開かれた。久々に素晴らしいギターを聴いた。 アナ・ヴィドヴィチ。1980年クロアチア生まれ。幼少期から天才ぶりを示し、10代の頃から幾多の国際コンクールでも輝かしい経歴を持つ。そして『クロアチアの宝石』と称されるその美貌。そんな彼女が、北関東の田舎町まで来るという話を今年始めに聞いたときは半信半疑であったのだが、アナのHPにアクセスすると確かに2010.10 Japan Maebashiとあった。 10月30日土曜日午後、台風14号接近で風雨が強まる中、開場の14時半少し前に今回の会場である前橋市大胡町シャンテに到着。500席のホールは7割ほどの入りだろうか。 定刻の15時ちょうどにステージが明るくなり客電が落ちると、程なくしてアナが登場した。大きな拍手と共にあちこちで溜め息がもれる。175cmはあるだろうか、長い手脚の長身にモノトーンのドレスをまとったその姿、エキゾチックな黒い瞳、白い肌、溜め息が出るのも無理はない。そのままハリウッドのレッドカーペットを歩いても何の不思議もない美しさだ。聴衆の拍手に二、三度笑みで応えてから、ステージ中央に置かれた椅子に腰を下ろした。ごく小さな音でギターのチューニングを確認する。しばしの静寂ののち、最初の曲目;バッハの組曲第3番ホ長調BWV.1006の演奏が始まった。組曲第1曲プレリュード。いいテンポだ。そして何と滑らかなスケールの運びだろう。まったく無理がない。フレーズを大きく捉え、右手を完全にコントロールし、音楽が大きく呼吸している。そもそもこの曲をプログラムの冒頭に持ってくることからして、テクニカルな面でまったく危惧する様子は彼女自身にもないのだろう。最初の曲はかなりのプロでも、手慣らし、様子見の感をまぬがれない無難な曲で始めることが多いものだ。彼女の場合、そんなことはまったく無用だ。続く組曲第2曲ルールは、かなりゆっくりとしたテンポだ。装飾音の扱いに意を配し、決して凝った装飾を施すことなく適切な音価を加えているせいか、装飾音によって音楽の流れがギクシャクすることがない。続くガボット、メヌエット、ブーレ、いずれもテンポは中庸で、かつテクニックに余裕があるため、ゆっくりと音楽に身をゆだねることが出来る。終曲ジーグも彼女ならいくらでもテクニックに任せて速弾きも可能であろうが、決して性急の音楽を運ぶことをしない。十分ドライブ感はあるものの、終始落ち着いた曲の運びでバッハの組曲を締めくくった。続く武満徹「ギターのための12の歌」からの4曲、そしてアルハンブラの思い出、アストリアスと、アナのよくコントロールされた右手のタッチが、こうしたポピュラーな曲を俗に終わらせず、心憎いばかりのフレージングとアーティキュレーションで、時折りハッとする演奏効果を上げていた。 15分の休憩をはさみ、バリオスやラウロなど中南米の曲と、スペイン近代のトローバの曲で構成され後半へ。バリオス「神の愛のほどこし」での粒の揃ったトレモロとやや押さえ気味の表現、そしてラウロのベネズエラ風ワルツ、中でも第2番の流れるように滑らかなフレーズの運びが印象的だ。アナの愛器;オーストラリアのジム・レッドゲイト作のギターは実によく鳴り、彼女の素晴らしい右手のタッチと相まって、豊かな低音から、よく通る高音まで、そして会場に響き渡るフォルテシモから、消え入るようなピアニシモまで、まったく過不足ない。彼女であればもっともっとダイナミクスの大きな表現も可能であろうし、実際十二分に大きな起伏もあるのだが、余りのよくコントロールされた余裕のある音の運びを聴いていると、彼女の演奏にむしろ静的な印象すら感じるほどだ。プログラム最後の曲、バリオス「大聖堂」はYouTubeでも何度か見ている。プレリュードとアンダンテでは弱音を生かし、神秘的な曲想をよく表現していた。そして終曲は、滑らかな中に力と情熱を込め、最後の上昇アルペジオを弾き切って曲を閉じた。 圧倒的なテクニックと素晴らしい右手のタッチに支えられた終始余裕のある音楽の運びに、久々にクラシックギターの素晴らしさを堪能したコンサートであった。そして会場の万来の拍手に応えて、アンコールとして、ヴィラ・ロボスの前奏曲第1番と映画「ディアハンター」のテーマ「カバティーナ」が演奏され、16時45分に終演となった。 彼女はまだ30歳になったばかりだ。このあとどのように音楽が熟していくのか楽しみだ。次回機会があれば、ソルやジュリアーニなどの古典物を聴いてみたい。きょうのプログラムでは、やはりバッハがよかった。もう一段深い呼吸が欲しい気もするが、それは今後の彼女に十分期待出来るだろう。楽しみに待ちたい。 最後に、演奏会に行けなかった人たちのためにYouTubeでの「大聖堂」を貼っておこう。
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きのう28日は一日冷たい雨に見舞われた。昼前から都内出張。東京駅近くの本社ビルで3時過ぎまで会議だった。東京駅もこの十年で随分と変わった。かつてはちょっと食事をしようと思っても駅舎内には店も少なかったが、今では随分と飲食店も増え、田舎からたまに出てくるとその変化に驚くばかりだ。会議が終わったあとは、駅舎内のカフェで深煎りの珈琲で一服し帰途についた。 さて、ブログタイトルに「六弦…」と標榜しながら、なかなかギターの話が出てこない。いぶかる向きもあるかもしれず、今夜はクラシックギターの王道を聴くことにし、セゴビアに登場してもらおう。 高校時代、クラシックギターを始めた頃、友人がセゴビアの弾くバッハ・シャコンヌが入ったレコードを持ってきた。しばし聴き入ったが、一向にいいとは思わない。酔っ払ったスペインのじいさんが、よたよた弾いている以上の感慨はなかった。当時のぼくは、ジョン・ウィリアムスの正確無比な弾きぶりや、ブリームの歌いまわしの上手さに傾倒していた。セゴビアをあらためて聴くようになったのは20年ほど前、DECCAに収録されたセゴビアのオリジナル録音がCD復刻されてからだ。加えてここ数年でLP盤も中古レコード店で見つけては買い求め、20枚ほどが手元にある。 今夜取り出したのは、フェルナンド・ソルの「魔笛」バリエーションやヴィゼーの組曲が収録されている盤だ。こうして聴いてみると、かつての印象とは随分と違い、意外にもきっちり弾いているではないか。もちろんスタイルとして前世紀のロマンティックなスタイルの持ち合わせてはいるのだが、フレーズごとにテンポの変化はあるものの、全体を支配しているテンポ感は正確だ。テクニックの切れ味も十分。ファリャの『ドビュッシーの墓に捧げる賛歌』などは、最近のギタリストと比べても、やや速めのテンポですっきりとした印象を受ける。 それにしても、セゴビアトーンと称されるこの音色ばかりはワンアンドオンリーだ。かつてはセゴビア、イエペス、ブリームと、聴けばそれとすぐ分かる音色を持った演奏家が多かった。最近の新しい録音を聴いても、誰のものなのか、ぼくなど一向にわからない。演奏技術、録音技術、楽器製作の技術、そうしたものが変化とレベルアップを遂げた結果なのか、音色に特徴のあるギタリストは昨今本当に少なくなった。
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マイ・ギター3本目の紹介をしよう。きょう紹介するのはこれまでのギターと少し違う形をしているのがお分かりだろうか。現在一般に使われているクラシックギターの原型は19世紀後半に、スペインの製作家アントニオ・デ・トーレスが作り、20世紀になった定着した。それまではこの写真のような、やや細身でコンパクトなギターが一般的だった。このタイプのギターは現代のモダンギターと区別するため『19世紀ギター』あるいは『ロマンティックスタイルギター』と通称されている。 90年代に入ってからだろうか、現代の製作家がレプリカを作ったり、当時の楽器を修復するようになって、プロ・アマ問わず、こうしたスタイルの楽器で当時の音楽を奏でることが一つのブームとなった。弦楽器一般にあるオリジナル楽器への回帰の一つともいえる。 この楽器は盛岡でギター製作をしていた水原洋さんに、2003年春に作ってもらったものだ。弦長は635mmでオーダーし、松の表板は少々アンティークな色合いのセラックで仕上げてもらった。水原さんは当時、19世紀ギターの製作や修復では日本の第一人者といってよい存在であった。しかし大変残念なことに、このギターが出来上がった直後に病に侵され、一旦は回復に向かったものの2006年に世を去った。享年46歳。2003年秋の弦楽器フェア会場では、ギターのお礼をいい、そのとき修復した古いフランス製のギターの説明をしてくれたのが、お会いした最後であった。 このタイプのギターで作曲をしたソルやジュリアーニらの作品を演奏すると、いかにも古典から初期ロマン派の薫り高い曲想が浮き立ってくる。あるいはもっと古いバロックやルネッサンス期のリュートの作品やバロックギターの作品を弾いてもよく合う。今夜は久しぶりにこの楽器を取り出して、アントン・ロジーの組曲イ短調でも弾いてみよう。
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若い人たちの間で車が売れてないという。大型のオーディオ機器もしかりだ。今の若い世代にとってのオーディオと言えば、iPodに代表される携帯型プレイヤーやそれらを前提にしたドックステーション、ミニコンポだろう。オシャレなインテリア男子も多い今、場所を取る無骨なオーディオ装置を部屋に設置するなんて論外か。80年代までのオーディオ全盛期を過ごしてきた我々世代から見ると万事隔世の感有りだ。 一方で、昔以上にオーディオ設備に血道を上げる輩もいて、数の上では絶滅危惧種同然ながら、そのエネルギーたるや、タダでは起きないしぶとさと執念を持っているようだ。先日買った以下の本をみると、そんな連中の激烈な熱情を感じる。オーディオ装置のために自宅に専用の電柱を立てたから始まり、大型スピーカーの箱を特注し、あまりの重さにピアノ輸送業者に搬入してもらったとか、そんな話がいっぱいだ。 ぼくの場合それほどのエネルギーもなく、またその源泉たる財力もない。万事ほどほどで手を打つことにしている。ほどほどの結論として、アンプ、アナログプレイヤー、CDプレイヤー、いずれも国内メーカーの量産品だ。 プリメインアンプ ; オンキヨー製 A-927 LPプレイヤー ; CEC製 ST-930 CDプレイヤー ; オンキヨー製 C-1VL ( 〃 ; パイオニア製 DV-610AV) スピーカー ; 三菱電機製 2S-305 (他にチューナー代わりにケンウッド製ミニコンポ;R-K700) アンプとアナログプレイヤーは共に購入してから15年ほど経つもの。CDプレイヤーだけは比較的新しい機械だ。但し以下の写真に写っているのはパイオニア製のDVDプレイヤー;DV-610AVという1万円ちょっとの廉価機種である。実はこのパイオニアのDVDプレイヤー、中身が7桁のプライスタグが付いた某ハイエンドオーディオメーカーのプレイヤーに、ほぼそっくりそのまま使われている といういわく付きのものだ。 スピーカーは三菱電機製の2S-305というやや大型のもので、昭和30年代初期に三菱とNHKの共同開発で生まれ、30年以上の長きに渡りNHK放送局内の標準モニタースピーカーだったものだ。唯一スピーカーだけは、ややマニアックと言えなくもない。学生時代に知人宅でこの2S-305の音を聴き、当時ラジカセに毛の生えた程度の装置しか知らなかったぼくは驚愕した。以後その音が脳裏を離れず、後年中古で入手した。 こう書くと、あまりオーディオには悩まず、バカなこともせず、幸福な日々を送ってきたように思われるかもしれない。がしかし、ぼくもかつてのオーディオ全盛期に指をくわえて見ていたクチだ。多少の原資をコントロールできるようになってから、あまたの失敗をしてきた。真空管アンプも何台か作ったが、今は気分転換に時折入替えて使う程度だ。つい最近もアンプの買い換えようと、某有名ブランドの最上級機をポチッとしかけ、すんでのところで思いとどまった。 結論として、8畳のぼくの部屋にセットした装置の音は、ほぼ完全にスピーカー;2S-305の実力と個性の上に成立している。このスピーカーの音を聴くたびに、しみじみイイ音だなあと思う。これまでにヤマハ;NS-1000M、JBL;4312B、インフィニティ;Kappa8.2i、B&W;805といったスピーカーがこの部屋に持ち込まれ、2S-305との対決となったが、いずれも10秒とかからずに2S-305の勝利となったほどだ。何より目前に広がる演奏者のリアルな存在感は他を圧倒した。それでいて、オーケストラの広がりや各楽器の定位も素晴らしくいい。2S-305を使う限り、アンプやプレイヤーは、その辺の有り合わせでも、音楽を楽しむのに過不足ない。6畳以上の広さが確保できる環境なら中古の(もはや中古しか流通していないが)2S-305はスピーカー選びの最良の選択の一つだ。
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日本のギター製作はバイオリン製作で有名な宮本金八から始まったと言われている。バイオリン製作をしながら、余技で作ったのだろうか。その宮本金八に弟子入りし教えを受けたのが中出阪蔵(なかでさかぞう1906-1993)である。阪蔵も初めバイオリン製作を手がけていたが、ほどなくギター製作に転じた。阪蔵には三人の息子がいた。そしてその三兄弟(中出輝明・中出敏彦・中出幸雄)が全員ギター製作家として一家を成した。ちょうど60年代ギターブームの追い風があった時期にあたる。往時には父阪蔵を含む子供たち、加えて弟子たちの大勢が東京中野の中出ギター工房で働いていたという。 阪蔵の次男の中出敏彦さんに初めて会ったのは1983年夏だった。学生時代に買ったギターのメンテナンスをしてくれるところはないかと、当地群馬からなるべく近くのギター工房を探したところ、所沢に敏彦さんの工房があることを知った。7月のある土曜日、ギターを持参して敏彦さんの工房へお邪魔した。少し待っていてくれれば、すぐに終わりますよと言われ、出荷前の新作のギターを試奏しながら待っていた。この新作の印象がとてもよかった。社会人になって数年経ち、多少の蓄えも出来て、よいギターを欲しいと思っていた時期でもあった。修理が終わったあと敏彦さんと話をしているうちに、ぼくは新作の注文を決めた。2ヶ月ほどで出来上がる予定だったが、たまたま敏彦さんがそれまでいた所沢から父阪蔵の工房であった中野の家へ転居する時期に重なったこともあって、注文品が出来上がったのは、その年1983年12月になった。暮れも押し詰まったある日、JR中野駅から歩いて10分ほどの工房に着くと、当時の最高グレード50号の新作5本が並んでいた。その中から選んだ1本がこのギターである。 表面板はドイツ松、横裏板はハカランダ。いずれも見事な材料で、特に横裏のハカランダは、昨今では滅多に見ることが出来ない最上級のブラジリアン・ローズウッドだ。ヘッドデザインは敏彦さんが60年代の終わりに渡欧して教えを受けた、名工エルナンデス・イ・アグアドのデザインが使われている。各部の工作精度も完璧だ。がしかし、このギターを手に入れた頃から、ぼくのサラリーマン生活も佳境に入り仕事に追われる毎日となった。そのためこのギターは、出来上がりから20年近くの間、あまり弾かれることなく、ケースの中で眠る日々が続いた。月日が経って2000年を過ぎた頃から再びギターを弾き始めたぼくは、この中出ギターを取り出しては、こんなに冴えない音だったかと、首をかしげるばかりだった。いい材料使っているのに…。 そんな中出ギターの音が変わり始めたのはここ3年ほどのことだ。何より眠たい音だなあと感じていた高音の反応がよくなってきた。中高音の鳴りは十分だ。和音の分離も悪くない。張りは柔らかく、軽いタッチにも敏感に反応して、音がよく抜けてくる。ウルフトーンはちょうどAにあるが、コントロールしづらいほどではない。惜しむらくは低音域、6弦の4フレット以下の低音の力が不足する。この領域がたっぷりと鳴る田邊ギターとは対照的だ。これはウルフトーンを高めに設定したギターの宿命で、両立は難しいのだろう。反面、6弦の7~12フレットの領域も音の詰りは少ない。音色としては、端正で古典的雰囲気の田邊ギターの対して、より華やかで明るい印象であるが、艶やかで粘りがあるというよりは、軽やかに良く鳴るというイメージだ。 ぼくが所属しているサークルの女性メンバーYさんが2003年作30号(松・インディアンローズ)の敏彦さんの楽器を使っている。練習熱心な彼女の中出ギターは、そろそろフレット交換が必要なほど弾きこまれていて、全音域でよく鳴っている。ボディサイズも私の作品が製作された頃より胴の厚みがいくらか大きめで低音も豊かだ。結果として私の1983年製より音全体のバランスがいい。1932年生まれの敏彦さんは今年78歳。先日電話で話をしたら、80歳で引退するまでに手持ちの良材を使い切って、よいギターを作っていきたいと、以前と変わらない元気な声で話しておられた。仕事の手が速く、夜や休日もいとわず製作に取り組む敏彦さんは、製作本数も多い。世には、寡作でないと価値が低いような風潮もときにあるが、そう勿体ぶるものいかがなものか。敏彦さんにはこれからもどんどん良い楽器を作ってほしいと思う。
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日本人科学者ノーベル賞受賞のニュースが飛び込んできた。このところ毎年のように日本から受賞者が出ている。地道な研究が実り、評価されたことを喜びたい。さてノーベル賞といえば舞台はスウェーデンの首都ストックホルムだ。ぼくは2003年から2006年にかけて仕事で北欧を何度か訪れる機会があった。都合10回程度行っただろうか。仕事の出張なのでほとんど物見遊山の時間はないのだが、それでも半日オフの時間があったり、予定した仕事が終わらず、週末をはさんで居残りになったりということもときにはあって、そんなときは一人でホテル周辺をブラブラする程度の時間は持てた。幸いスウェーデンはほとんどの局面で、ホテルはもちろん、レストランやコンビニまで英語が通じる。スウェーデン語はもちろんちんぷんかんぷんだが、こちらの片言の英語でも相手が理解してくれるのは助かる。フランスやイタリアとは大違いだ。一番頻繁に滞在したのはストックホルムで、最初に訪問は、あの田中さんがノーベル賞を受賞した翌年の2003年6月だった。そのときの写真を少しだけアップしておこう. ストックホルムは北のベニスとも言われ、街を取り巻くように外海が入りくんでいる。また第二次大戦で中立国であったことも影響してか、戦火をまぬがれ、古い街並みが旧市街地として今も残っている。4枚目、7年前のぼく(今より10kgはやせているなあ)が写っている写真のバック、茶色の建物がノーベル賞授賞式が行われるストックホルム市庁舎だ。6月中旬だったと思うが、この時期ストックホルム辺りでは、夜11時近くまで明るい。社会活動はもう終わっている時間で、通りには人っ子一人いないのに街の光景も空も明るいという白昼夢のような場面に遭遇したのを思い出す。 ところで、北欧の作曲家といったら誰を思い出すだろうか。北欧の作曲家を5人あげよ、という問題が出たらどうだろうか。はい、先生!フィンランドのシベリウス!。はい、先生!ノルウェイのグリーグ!。…と、ここまでは中学校の音楽の教科書に出てくる。そのあとが出てこないのではあるまいか。少しクラシックを聴き込んだ人なら、デンマークのニールセンを上がるかもしれない。交響曲第4番『不滅』が有名だ。ここまでで先の問いには3人まで答えが出た。しかしそのあとはどうだろう。以外にも北欧の大国スウェーデンの作曲家の名前が出てこない。ここで、ステンハンマル、ベルワルド、アルベーンといった名前が出てきたら、かなりのクラシックオタクということになる。 上の写真のNAXOSから出ているスウェーデンの作曲家によるバイオリン曲集だ。ステンハンマル、ベルワルドの曲が聴ける。いずれも初期から中期ロマン派の曲想をたたえた美しい曲ではあるのだが、せっかくいいモチーフを使いながら、それを構成力で展開させ、聴く者を引き込むほどの魅力には乏しい。グリーグやシベリウスに比して、スウェーデンの作曲家の名がメジャーにならないのもうなづける。
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三十年も勤め人をやっていて、今更月曜病などと言うのもナンだが、いつもながら週明けは気が重い。実際きょうは午前中から頭痛に見舞われ、薬を飲んだがいささかも効かず、午後の会議も正に頭をかかえて乗り切った。そんなわけで、きょうは予定されていた部内の『5時から会議』も欠席して定時に退社した。帰宅後すぐに熱めの風呂にかなり長くつかって、頭痛はようやく改善された。いくらか気分もすっきりしたので、夕食後アンプの灯を入れて音楽を聴くことにしよう。 今夜選んだのは、バッハのパルティータだ。バッハの鍵盤曲を聴くようになったのは実は割と最近のこと。中でも全六曲あるパルティータは、フランス組曲と並んでとりわけよく聴く曲の一つだ。今夜は中でももっともお気に入りの第二番をそれぞれ個性の異なるマレイ・ペライア、アンドラーシュ・シフ、ウラディミール・フェルツマンの三人の演奏で聴いてみる。ついでに春秋社版の楽譜も広げようか。 ペライアがバッハのアルバムを少し前から出し始め話題になっていたのは知っていたが、自分で入手したのは、パルティータの第二・三・四番を含むこの盤が初めてだ。シフの盤は80年代に出て『歌うバッハ』として、以降定番となった。もう1枚のフェルツマンの録音は十年ほど前1999年録音のものだ。 最初に聴いたペライアの演奏は、楷書で描いた模範的な表現とでも言おうか、驚きや緊張にさらされることなく安心して身を任せられる演奏だ。といって凡庸で退屈なものでない。ステレオで聴くとスピーカーの中央やや近めに定位するピアノの音はクリアで美しく、低音・高音のバランスもよい。次に聴いたのはフェルツマン。一聴して、まったく異なる音色感。ピアノの音はかなり硬質に捉えられ、低音はやや少なめで中高音のクリアさが印象に残る(ブックレットにはスタインウェイを使用と記されている)。パルティータ第二番の最初の曲『シンフォニア』の冒頭から装飾音を自在に駆使していく。ペライアの楷書とは好対照だ。主部に入っても、左手のタッチをスタッカート気味にコントロールして、すべての音が空間にくっきりと浮かび上がる。かなり装飾音を入れながら、くどさを感じさせないのは、この音色と両手のコントロールによるところが大きい。続いて聴くシフは他の二人とは世界が異なる。フェルツマンのクリアさを優先した両手のコントロールとは対照的に、すべての音はレガートにつながり、録音もかなり残響を含む。ややロマンティックで主情的な表現を助長する印象。意図的な音作りだろうが、演奏・録音とも悪く言えば少々精緻さやクリアさに欠ける。どの盤がいいかと問われるといささか返答に窮するが、今の気分ではペライア盤か。あるいはフェルツマンも時に取り出して聴きたくなる。 と、ここまで書いて、何か忘れてないかと外からあるいは内から問う声が聞こえる。『グールドはどうした?』と。はい、忘れていませんよ。グールドの何枚かのCD/LPそしてオリジナルジャケットコレクションのCD80枚セットも控えている。が、今夜は大好きなグールドには休んでいてもらおう。グールドにはもう少し体調のよいときに登場してもらうつもりだ。
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