昭和歌謡 伊東ゆかり 布施明
今夜はダラ~っとくつろいで、レトロな昭和歌謡を聴こう。手元にある昭和歌謡のLP盤70枚ほどを並べてみた。まったく脈絡のない集合だが、ご覧の盤のほとんどは、ここ10年ほどの間に手に入れたものだ。一部を除いて、多くはリサイクルショップの1枚100円のジャンクボックスから救済してきた。従って盤質は玉石混合で、レコード盤の方ではなく、プレイヤーの針の方が痛むのではないかと思うような酷い状態のものもある。そんな盤ではスクラッチノイズも盛大に出てくるが、それでも昭和のレコード盤に違いはなく、当時の録音技術、バックバンドの楽器や演奏のレベルなどが当時のままよみがえり、懐かしいことこの上ない。今夜はこの中から伊東ゆかりと布施明の盤を選んでみた。どちらも盤の状態はよく、当時の二人の声を存分に楽しめる。
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伊東ゆかりが「小指の思い出」のヒットで人気になった頃、ちょうどテレビでは「夜のヒットスタジオ」が始まった。前田武彦・芳村真理の司会で、ぼくが中学2年の年、1968年に始まった。マエタケこと前田武彦が「カラーテレビをお持ちの方は、ゆかりちゃんの肌の色が本物の肌色ですからね。」と言っていたのを思い出す。伊東ゆかりは「小指の思い出」がヒットする以前は洋楽ポップスのカヴァーを歌っていて、シャボン玉ホリデーやザ・ヒットパレードによく出ていた。ザ・ヒットパレードといえば、踊りながら指揮をするスマイリー・小原も懐かしい顔だ。
布施明もシャボン玉ホリデーではお馴染みの顔だった。デビュー当時まだ10代だったが、歌の上手さはよく覚えている。ぼくにとっての布施明は「シクラメンのかおり」以前の、「霧の摩周湖」や「恋」を歌う姿の印象の方が圧倒的に強い。
この盤で歌う二人とも、当時はまだ二十歳そこそこであったはずだ。しかし声はよくコントロールされていて、伸びやかでよく通る声が気持ちがいい。当時の歌が今でも歌い継がれる大きな理由の一つは、プロの作詞家によって作られた歌詞と、その日本語を譜割りの音価一つ一つに乗せ作った、当時のプロの作曲家の作曲技法によるところが大きいと思う。音程に不自然な跳躍がなく、和声進行も自然で、結果として覚えやすく歌いやすい。「そこそこクラシックオタク入ってます」状態のぼくだが、ベースには十代の頃の歌謡曲や洋楽ポップスがある。歌謡曲もポップスのその和声の源泉はバッハ以来の西洋調性音楽だ。Ⅵ-Ⅱ-Ⅴ7-Ⅰ(Am-Dm-G7-C)の進行などは、歌謡曲やポップスに多数見られるが、クラシックでもバロック音楽時代以来の常套句。決して異質なものではなく、共通点も多い。遥かイタリアン・バロックに思いをはせつつ、昭和レトロの歌謡曲を聴くのもまた一興だ。
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伊東ゆかりが「小指の思い出」のヒットで人気になった頃、ちょうどテレビでは「夜のヒットスタジオ」が始まった。前田武彦・芳村真理の司会で、ぼくが中学2年の年、1968年に始まった。マエタケこと前田武彦が「カラーテレビをお持ちの方は、ゆかりちゃんの肌の色が本物の肌色ですからね。」と言っていたのを思い出す。伊東ゆかりは「小指の思い出」がヒットする以前は洋楽ポップスのカヴァーを歌っていて、シャボン玉ホリデーやザ・ヒットパレードによく出ていた。ザ・ヒットパレードといえば、踊りながら指揮をするスマイリー・小原も懐かしい顔だ。
布施明もシャボン玉ホリデーではお馴染みの顔だった。デビュー当時まだ10代だったが、歌の上手さはよく覚えている。ぼくにとっての布施明は「シクラメンのかおり」以前の、「霧の摩周湖」や「恋」を歌う姿の印象の方が圧倒的に強い。
この盤で歌う二人とも、当時はまだ二十歳そこそこであったはずだ。しかし声はよくコントロールされていて、伸びやかでよく通る声が気持ちがいい。当時の歌が今でも歌い継がれる大きな理由の一つは、プロの作詞家によって作られた歌詞と、その日本語を譜割りの音価一つ一つに乗せ作った、当時のプロの作曲家の作曲技法によるところが大きいと思う。音程に不自然な跳躍がなく、和声進行も自然で、結果として覚えやすく歌いやすい。「そこそこクラシックオタク入ってます」状態のぼくだが、ベースには十代の頃の歌謡曲や洋楽ポップスがある。歌謡曲もポップスのその和声の源泉はバッハ以来の西洋調性音楽だ。Ⅵ-Ⅱ-Ⅴ7-Ⅰ(Am-Dm-G7-C)の進行などは、歌謡曲やポップスに多数見られるが、クラシックでもバロック音楽時代以来の常套句。決して異質なものではなく、共通点も多い。遥かイタリアン・バロックに思いをはせつつ、昭和レトロの歌謡曲を聴くのもまた一興だ。
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