19世紀ギターで弾く古典の味わい
冷たい小雨降る日曜日。昼をはさんで少々野暮用。午後は久々に楽器を取り出してひとしきり弾いた。今のところ、これといって何か目標とする曲があるでもなく、暗譜するでもなく、いつもながら食い散らかしに近い練習。マンドリン用のオデル教則本に出ているスケール練習をいくつか弾いて指慣らし。そのあとはその日の気分で楽譜を広げる。きょうはソルの喜遊曲と、元々はソルがピアノために書いた曲のギターアレンジ譜を選んだ。楽器は19世紀半ばにイギリスで使われていたチャペル社の楽器を取り出した。




19世紀古典期のギター曲を当時のオリジナル楽器で弾く楽しみ。その響きにはモダン楽器では味わえないものがある。現代の楽器と比べると絶対的な音量、音圧はもちろん小さい。しかし、それを補って余りある響きと反応の良さ、音の広がり、和音の調和は比類がない。ソルやジュリアーニをはじめ、マティエカ、ディアベリ、フォッサ、カルカッシなどが残した曲から技巧的にあまり無理のない曲を選んでポロポロと弾いて楽しむ。弦長610~630mmが標準だった当時の楽器に、当時と同じくらいの低めの張力の弦を張る。無理なく楽器全体が鳴り響き、まことの心地いい。弦は1年以上交換しておらず、低音の巻き弦はすでに輝きを失っているが、音は適度にエッジが取れて、むしろ好ましい。モダンギターもそうだが、ぼくの場合弦の交換頻度はとても低い。新品の弦に付きもののビーンビーンというメタリックな音を(しかも暴力的なタッチで弾いた音を)聴いていると、あれは楽器の音ではなく弦の音だと感じるからだ。極端な言い方をすると、金属バットでブッ叩いて音を出しているように感じる。そんなに無理しなくても楽器は鳴るはずだし、無理せずに鳴るところで留めておくべきだと、自戒を込めて思う。
弦をはじいた瞬間に音が立ち上がり、短めの余韻で消えていく。ギターの音にサステインの長さを求めたくなる気持ちは分かるが、ピアノ同様、発音のあとは減衰しかない楽器の特性をネガティブに捕らえる必要はなく、少なくても古典期のクラシカルな作曲家もそれを考慮して音符を並べているはずだ。物理的なサステインに関して、当時は部屋の響きがその役割を負っていただろう。音を切らずつなげて弾きなさいと、かつての教科書や指導者は主張した。しかしそのために無理な左手の運指を強いられ、結局音が切れてしまう。前後の音との関係とフレージングでいくらでもレガートな演奏は可能だろうと思う。まあ、ぼく自身が範を示せるわけではないので、説得力はないのだが…
デイヴィッド・スタロビンによる19世紀ギター(ウィーンモデル)の演奏でジュリアーニとソル。大曲と格闘する前に、音符の並びから言えば技巧的にさほど無理のないこうした曲を、フレージングとアーティキュレーションでレガートに聴かせる音楽性を大事にすべきだと、この演奏が教えてくれる。
昨年末に19世紀ギターで弾いた演奏から、バロック期のA・ロジーの組曲を二つ。
組曲ハ長調
http://youtu.be/6wMYLPhSo-8
組曲イ短調
http://youtu.be/MS8CIUzqhI0
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