自虐的に言う必要もないだろうが、このブログの記事にはほとんどオリジナリティはない。多少は自分の感想、考えを書いてはいるが、大半はすでに世にある情報の繰り返しに過ぎない。取り上げる盤もたまたま聴いた盤を思い付くまま選ぶだけ。…ではあるが、それでも、演奏の印象をどんな風に表現しようか、参考になるようなYOUTUBE音源は何を貼ろうかと思い巡らす。そんな中、だいぶ前から気になっていることがある。このブログで取り上げた盤やジャンル、話題や貼ったYOUTUBE音源などをそのまま取り上げた、あるいはそれにきっかけを得て仕立てたような他のブログ記事を散見するようになった。ありていに言えば「何となくマネされているなあ」と感じることがあるのだ。
一度や二度なら偶然もあるだろうが、何度か続くと偶然とも考えにくくなる。ある知人からこんな話を聞いた。その知人は自分の趣味に関するインスタグラムを開いていて、写真と併せて考え抜いた簡単な説明や感想を記載している。知人によると、フォローし合っている他のインスタグラム利用者の記事に、しばしばその知人が考えたフレーズが使われているのだそうだ。知人曰く、そのフォロワーは知人の記事に対して「いつも素敵なフレーズで楽しみにしています」とコメントしてきたそうだ。知人としては、アクセスされるのはうれしいが、そのまま何のことわりもなく自分の言葉やフレーズが流用されるのは、やはり愉快ではないという。敬愛するその道のプロや作家をトレースするのはよくあることだし、ぼく自身は問題とは感じない。しかし素人が素人のマネをするのは感心しない(プロがプロの…も同様)。ブログを書く動機や目的は様々で、勝手気ままに書けばいいと思っているが、だからこそ自分の頭と感性の範囲で書けばよいと思う。アクセス記録を解析して何がしかの「裏取り」は可能だろうが、そんなことをする気もない。せめて「与太さん、その記事・音源ナイス!いただきます!」くらいのコメントがあると休心する。
…そういう与太さん、アンタの記事もあちこちのマネが多いぜ…と言われるかもしれない。ぼく自身はブログを始めてからというもの、自分の記事を書くのに精一杯で、他のブログをみることが少なくなったから、そもそもマネすべき記事に触れる機会が少ない。それに、もし自分が記事にしようと思っていたようなことが書かれているブログを見たときは、意識的に(心情的に)同じ話題は避ける。それでも偶然やその他の要因が重なり、そう思われることがあるかもしれない。そんな風に考えていると、こんなブログなどやめ、ひとり静かに音楽と接していた方がいいかなと思うのだ。
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きょうは都内での仕事を早めに切り上げ、知人と落ち合って上野入谷方面へゴー! 馴染みのギター専門店「アウラ」へお邪魔し、少々遅い年始挨拶方々気になる楽器をチェックしてきた。
試奏する知人

アウラは昨年秋以来三ヵ月ぶり。地下鉄日比谷線入谷駅から歩くこと数分でアウラに到着。例によって奥の間へ通される。事前に電話を入れ、見たい楽器を連絡しておいたでのさっそく試奏となった。きょうは拝見したのは以下のギター。いずれも高水準の音。ネックの状態など健康状態も良好なものばかりで楽しく試奏した。中でも印象に残った楽器をいくつか挙げておく。
エドガー・メンヒ1世 1966年
ハウザー3世 2007年
ハウザー3世 1981年
バルベロ・イーホ 1997年
ショーン・ハンコック ハウザー1世モデル 2017年新作
ブライアン・コーエン ルビオモデル 1983年
尾野薫 ハウザー1世モデル 2005年 他
今回、事前にリクエストしたおいた筆頭がメンヒ1世のギター。メンヒ2世はよく見かけるが、1世それも60年代あるいはそれ以前のものは中々出くわさない。10年程前、神田明神方面にあったメンヒ1世の60年代のものが好印象で記憶に残っていた。そのときの記憶ではボディーは軽く出来ていて、ボディ共鳴(低音ウルフ)もF#辺りと低め。ハウザー1世や古いスパニッシュをほうふつとさせる音だった記憶がある。今回の1966年作はメンヒ1世には珍しく横裏板がハカランダ。重量もあって、かなりしっかりした作りの個体だった。しかし出てくる音は意外に軽い発音で、特に中高音は澄んだ音が抜け良く響き好印象だった。メンヒ2世のギターは仲間内で使用者がいるのでしばしば耳にするが、1世の時代とは異なる、より現代的で重厚な音だ。
ハウザー3世はいつもながら安定していて素晴らしい音。2007年作はぼくが使っている2006年作と近いこともあって、音の印象も似ている。低音も高音も太く鳴りながら、あいまいなところがない。また弾き手の手元の鳴りは控えめながら、数メートル離れた前方では実に明瞭に聴こえてくる。1981年作は3世作としては初期のもので、#48のシリアル番号が付されていた。まだ2世(1911ー1988)が存命中の時期で、3世のラベルながら父子共作の頃だったかもしれない。30年余を経ていることと、前所有者がよく弾き込んでいたことを伺わせ、2007年作と比べると明らかに音の抜けがよく、今回もっとも印象に残った1本だった。
尾野薫とショーン・ハンコックのハウザー1世モデルは共にやや軽めのボディーで、低音高音とも品位のある音で申し分なくよく鳴っていた。ブライアン・コーエンのルビオモデルは太めの男性的な音ながら、高音は明瞭に発音し、660㎜の弦長も気にならなかった。
いずれ劣らぬよい楽器を囲んで、また鎌田社長のフレンドリーな対応もあって、いつながらの楽しい一時間。そして、これもいつもながら、試奏の礼代わりに知人は弦を、ぼくはナクソス盤のCDを1枚買い求めて店をあとにした。
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週末土曜の朝。早起きを強いられる平日から解放され、寿命が3年は延びる感じ。気持ちよさにつられて朝食のパンも対平日比5割増だ(^^; さて、そんな気分につられて朝の音盤タイム。こんな盤を取り出した。

ウェーバーのフルートソナタ集作品10。ジャン・ピエール・ランパルのフルート、ジョン・スティール・リッターのピアノ。1982年録音。第1番から第6番までの6曲からなり、元々ヴァイオリンとピアノのための作品として出版され、のちにフルート版がウェーバー本人の許諾も得て出版された由。ヴァイオリン版との違いはフルートでは演奏不可能な低い音域の変更や和音の単音化など僅かにとどまり、ピアノパートはまったく同一、とライナーノーツに記されている。
全6曲のうち半分は2楽章だけ、比較的規模の大きな第6番を除くと、いずれもちょっとした小品というほどの規模だ。この曲は元々<アマチュアに向け作曲・献呈されたヴァイオリンオブリガート付き段階的ピアノソナタ集>と題されていたそうで、時代的にはロマン派に属するウェーバーではあるが、古典的な様式感と簡潔な和声で書かれている。ただ、この時代以降好まれた異国趣味が反映されていて、ボレロ、ポロネーズ、ロシア風といった指定が、全6曲の5つの楽章に付されているのが特徴的だ。
このレコードも以前ネットで激安箱買いした数百枚の中に混じっていたもの。そんなことでもなければ、フルート学習者でもないぼくが自ら選んで手にすることもなかったろう。作品の規模、難易度から、コンサート用プログラムにのることはほとんどないのだろうが、爽やかな休日の朝に聴くに相応しい中々チャーミングな作品だ。
全6曲の中ではもっとも規模の大きな第6番ハ長調(といっても8分ほど)。オリジナルのヴァイオリンによる演奏。近年しばしば来日しているイザベル・ファウスト(ヴァイオリン)&アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)というコンビ。
同第2番
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寒波が去って三月並みの暖かな一日。春の気配にはまだまだ早いが、夕方の日脚はひと頃よりだいぶのびた。きょうも業務に精励。7時ちょうどに帰宅。ひと息ついて、相も変わらず音盤タイム。こんな盤を取り出した。

例のグールドのボックスセットから選んだバッハ;イギリス組曲。グールドのイギリス組曲はボックスセットを手に入れる前から通常リリース盤でよく聴いていた。グールドの盤歴の中では比較的遅い時期の録音で1977年に収録されている。ゴールドベルク変奏曲でデビューしてから二十年以上を経ているが、グールドのバッハに対するアプローチに大きな変化はない。すべてが明晰で、楽譜に書かれた音が解体され、そして再構築される。この盤はアナログ最終期ということもあって音も一層クリアで、彼の演奏の特質がよく明確に伝わってくる。しかしよく聴くと初期のパルティータの録音などに比べると、音楽表現の幅が少し控え目になっている。音の強弱、テンポ設定の緩急、アーティキュレションの扱い、そうした一つ一つを彼が頭に描いたイメージの一歩手前で指先をコントロールしているように感じる。
1932年生まれのグールドはこの盤の収録時には四十代半ば。いくらグールドの音楽が若くして完成されていたといえ、二十代の頃と違って当然だろう。これをして円熟というのかもしれないが、円熟がいいとも限らない。往々にして年齢を重ねるとテンポは遅くなり、音楽の味付けも濃くなる。グールドが50歳で亡くなる前、晩年のゴールドベルクの再録音でも分かるように、グールドもこの法則の例外ではなかった。若い頃の竹を割ったような演奏にリアリズムを感じることも多い。このイギリス組曲の録音は晩年のかなり大きな変化を前にした時期にあたり、壮年期の彼の比較的中庸な表現が聴ける盤だ。
第2番の音源。
第1番のブーレ。テープ編集風景。まさにアナログの世界。
◆全6曲の音源
https://youtu.be/UueQWNjv7_k
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週明け月曜日。事情あって少し早く帰宅。夕方時間があったのでギターを取り出す。ひとしきりスケールやアルペジオで指慣らし。そののちカルカッシ25の練習曲から半分ほど拾い弾きし、そのあとは目に付く楽譜を気ままに弾き散らかすという、いつも通りの練習にならない練習。先日の記事でマウロ・ジュリアーニの<英雄ソナタ>をさらっていると書いたが、きのうは同じジュリアーニの<大序曲>もヨタヨタと弾いてみた。

マウロ・ジュリアーニ(1781-1829)はイタリアのギタリスト・作曲家。19世紀ギター界の雄:フェルナンド・ソル(1778-1839)とほぼ同世代にあたる。ヴァイオリンやチェロも修め、ベートーヴェンの第7交響曲初演ではチェロパートに参加していたと伝えられている。19世紀初頭のウィーンで大そう活躍し、人気も博したようだ。クラシックギター弾きにはソルと並んで19世紀古典ギター隆盛期を代表する作曲家としてお馴染みの存在だが、作風はかなり異なる。ソルの作品はその豊かな和声感と陰影に富む穏やかなロマンティシズムに満ちているのに対し、ジュリアーニはよりシンプルで明快な作風。イタリアの空を思わせるというと、いささかステレオタイプな言い方になるが、そんな比喩が当てはまる。作風の異なる二人だが、共通しているのは古典的な様式感と和声感、そしてそれらを具現化する道具としての弦楽四重奏やオーケストラの響きのイメージがギターに盛り込まれていることだ。もちろん二人とも管弦楽を使った作品も書いていて、オーケストラの扱いはひと通り心得ていた。実際、ソルの楽曲はその構成音をそのまま弦四の各パートに音を置き換えても、違和感なく古典音楽として成り立つだろう。
ジュリアーニのこの<大序曲>も、楽譜の音形だけ見るといかにもギター的なアルペジオや跳躍が随所に見られるが、弾きながらイメージをふくらませると、オーケストラの響きが容易に想像できる。また、そういうイメージを持ちながら弾かないと、この曲も単なるギターヴィルティオーゾのショーピースに終わってしまう。ギター弾きの中には、他のクラシック音楽をほとんど聴かない輩も多い。しかしギターを弾くにあたっても、管弦楽や弦楽四重奏などに広く親しみ、その響きのいかなるものかを知っていることは、よい演奏だけでなく、単に楽しむ上でも必須事項だと感じる理由はそんなところにもある。
以前ソルの記事に貼った作品54bisのYouTube動画で弾いていたデュオコンビの一人が、この<大序曲>のオーケストラ的要素とギターにおける表現について述べている。1分半過ぎから管弦楽版に仕立てた<大序曲>の一部がMIDI音源で流れるが、実に自然に管弦楽作品になっている。ベートーヴェンが「ギターは小さなオーケストラだ」と言ったのも、当時ウィーンで人気を博したジュリアーニのこうした作品や演奏に接していたからかもしれない。
村治佳織の弾く<大序曲> 2003年とある。彼女がもっとも輝いていた時期だと思う。この頃英デッカを契約し、メジャーレーベルとの契約で大いに騒がれた。しかし以降リリースされるアルバムはクラシックギターの保守本流ともいうべきレパートリーから次第に離れていった。
楽譜付き音源
管弦楽編曲 音源がもう少しまともなら、よりリアリティがあったのだが。
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正月気分もすっかり抜けて、本日も業務に精励。7時ちょうどに帰宅した。寒波到来中で寒さもピーク。今夜も冷え込んでいる。このところほとんど24時間連続運転状態のエアコンで暖を取りつつ、週末夜更けの音盤タイム。久しぶりに室内楽でもと思い、こんな盤を取り出した。

ぼくがもっとも敬愛するチェリスト:アントニオ・ヤニグロ(1918ー1989)が参加しているシューベルトのトリオ。ピアノはバドゥラ・スコダ(1927-)、ヴァイオリンはジャン・フルニエ(1911ー2003 チェリスト:ピエール・フルニエの弟)。ヤニグロとトリオを組んでいくつかの録音を残したメンバーだ。手元に資料がないのではっきりしないが、おそらく50年代初頭の録音。手持ちの盤は60年代の日本ウェストミンスター社による盤。これも出張先の大阪で梅田に投宿した際、近くの名曲堂阪急東通り店で買い求めた記憶がある。
この曲を耳にするのは本当に久しぶりだったが、第1楽章が流れてきて一気に学生時代にフラッシュバックした。かつてこの曲をよく聴いたことを思い出す。堂々とした第1主題が朗々と歌われる。しかしそこはもちろんシューベルト。朗々といってもベートーヴェンのように強さが前に出ることはない。整ったソナタ形式のこの楽章は聴いていて本当に落ち着く。意表をつく展開はないが、すべてが音楽的に程よく収まる。展開部ではヤニグロのチェロも大活躍する。第2楽章もヴァイオリンとチェロの掛け合いが美しい抒情的なアンダンテ。スケルツォを挟んで、終楽章のロンドはかなり長く、やや冗長になる感も否めないが、まあこれがウィーン古典派の流れを汲むロマン派の特徴でもあり、ゆったり付き合うべしというところだろう。
この盤のLP音源。録音は1951年とある。CDでは復刻されていないのかな…
エベン・トリオというチェコの若い三人組による演奏。
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ここ数年、好んで聴く交響曲に変化がある。モーツァルトよりハイドン、ベートーヴェンよりシューベルト、ブラームスよりシューマン…という感じ。とりわけハイドンとシューマンは他の交響曲を差し置いても聴き続けたいと思うほどだ。新年になってシューマンのライン交響曲をいくつか聴いたが、今夜はその続きでこんな盤を取り出した。

2013年2月22日に亡くなってからやがて5年になるウォルフガンク・サヴァリッシュがシュターツ・カペレ・ドレスデンを振って70年代初頭に録音したシューマンの交響曲集。その中から第1番変ロ長調<春>を取り出した。手持ちの盤は80年初頭にミドルプライスで再発した際の盤。その後、近年ではCD廉価盤でもリリースされている。 このSKDとのシューマンは間違いなく彼の盤歴と代表するものの一つだろうし、この盤でシューマンに開眼した同世代の輩は多いのではないだろうか。
ぼくが初めてサヴァリッシュのシューマンを聴いたのは大学1年とき。第4番ニ短調だった。そのときの感激は今も忘れない。素晴らしく流麗でしなやかな曲の運び。豊かな残響を伴ったドレスデンの響き。貧乏学生下宿の貧弱なオーディオセット(建築用床材で作った後面開放のフルレンジ:ダイヤトーン610、NF回路に手を入れてバスブーストを付けた自作6BM8シングルのアンプ、トリオのチューナー、ワウ・フラッターに悩まされたティアックのカセットデッキ…)から流れる音楽に、これまでに味わったことのない感銘を受けたのを覚えている。
春の訪れを告げるトランペットとホルンで始まる序奏から、まったく間然とするところがない。主部への移行に際してのテンポチェンジは、これまで聴いたことのある演奏の中でも最高にスムースかつエキサイティングなものの一つだ。細かなパッセージが続く主部に入ると、SKDのアンサンブルの見事さが際立つ。美しい響きにピタリとあったピッチ。オーケストラ・サウンドの極み。ときどき響き渡るペーター・ダムのホルン、決め所で轟くゾンダーマンのティンパニー、SKDの全盛期といっていいだろう。
この盤の音源。全4楽章。
指揮者藤岡幸夫と音楽番組の構成・監修を手掛ける新井鷗子による解説付き
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