マイ・ギター <その2> 中出敏彦 1983年製作
日本のギター製作はバイオリン製作で有名な宮本金八から始まったと言われている。バイオリン製作をしながら、余技で作ったのだろうか。その宮本金八に弟子入りし教えを受けたのが中出阪蔵(なかでさかぞう1906-1993)である。阪蔵も初めバイオリン製作を手がけていたが、ほどなくギター製作に転じた。阪蔵には三人の息子がいた。そしてその三兄弟(中出輝明・中出敏彦・中出幸雄)が全員ギター製作家として一家を成した。ちょうど60年代ギターブームの追い風があった時期にあたる。往時には父阪蔵を含む子供たち、加えて弟子たちの大勢が東京中野の中出ギター工房で働いていたという。
阪蔵の次男の中出敏彦さんに初めて会ったのは1983年夏だった。学生時代に買ったギターのメンテナンスをしてくれるところはないかと、当地群馬からなるべく近くのギター工房を探したところ、所沢に敏彦さんの工房があることを知った。7月のある土曜日、ギターを持参して敏彦さんの工房へお邪魔した。少し待っていてくれれば、すぐに終わりますよと言われ、出荷前の新作のギターを試奏しながら待っていた。この新作の印象がとてもよかった。社会人になって数年経ち、多少の蓄えも出来て、よいギターを欲しいと思っていた時期でもあった。修理が終わったあと敏彦さんと話をしているうちに、ぼくは新作の注文を決めた。2ヶ月ほどで出来上がる予定だったが、たまたま敏彦さんがそれまでいた所沢から父阪蔵の工房であった中野の家へ転居する時期に重なったこともあって、注文品が出来上がったのは、その年1983年12月になった。暮れも押し詰まったある日、JR中野駅から歩いて10分ほどの工房に着くと、当時の最高グレード50号の新作5本が並んでいた。その中から選んだ1本がこのギターである。
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表面板はドイツ松、横裏板はハカランダ。いずれも見事な材料で、特に横裏のハカランダは、昨今では滅多に見ることが出来ない最上級のブラジリアン・ローズウッドだ。ヘッドデザインは敏彦さんが60年代の終わりに渡欧して教えを受けた、名工エルナンデス・イ・アグアドのデザインが使われている。各部の工作精度も完璧だ。がしかし、このギターを手に入れた頃から、ぼくのサラリーマン生活も佳境に入り仕事に追われる毎日となった。そのためこのギターは、出来上がりから20年近くの間、あまり弾かれることなく、ケースの中で眠る日々が続いた。月日が経って2000年を過ぎた頃から再びギターを弾き始めたぼくは、この中出ギターを取り出しては、こんなに冴えない音だったかと、首をかしげるばかりだった。いい材料使っているのに…。
そんな中出ギターの音が変わり始めたのはここ3年ほどのことだ。何より眠たい音だなあと感じていた高音の反応がよくなってきた。中高音の鳴りは十分だ。和音の分離も悪くない。張りは柔らかく、軽いタッチにも敏感に反応して、音がよく抜けてくる。ウルフトーンはちょうどAにあるが、コントロールしづらいほどではない。惜しむらくは低音域、6弦の4フレット以下の低音の力が不足する。この領域がたっぷりと鳴る田邊ギターとは対照的だ。これはウルフトーンを高めに設定したギターの宿命で、両立は難しいのだろう。反面、6弦の7~12フレットの領域も音の詰りは少ない。音色としては、端正で古典的雰囲気の田邊ギターの対して、より華やかで明るい印象であるが、艶やかで粘りがあるというよりは、軽やかに良く鳴るというイメージだ。
ぼくが所属しているサークルの女性メンバーYさんが2003年作30号(松・インディアンローズ)の敏彦さんの楽器を使っている。練習熱心な彼女の中出ギターは、そろそろフレット交換が必要なほど弾きこまれていて、全音域でよく鳴っている。ボディサイズも私の作品が製作された頃より胴の厚みがいくらか大きめで低音も豊かだ。結果として私の1983年製より音全体のバランスがいい。1932年生まれの敏彦さんは今年78歳。先日電話で話をしたら、80歳で引退するまでに手持ちの良材を使い切って、よいギターを作っていきたいと、以前と変わらない元気な声で話しておられた。仕事の手が速く、夜や休日もいとわず製作に取り組む敏彦さんは、製作本数も多い。世には、寡作でないと価値が低いような風潮もときにあるが、そう勿体ぶるものいかがなものか。敏彦さんにはこれからもどんどん良い楽器を作ってほしいと思う。
阪蔵の次男の中出敏彦さんに初めて会ったのは1983年夏だった。学生時代に買ったギターのメンテナンスをしてくれるところはないかと、当地群馬からなるべく近くのギター工房を探したところ、所沢に敏彦さんの工房があることを知った。7月のある土曜日、ギターを持参して敏彦さんの工房へお邪魔した。少し待っていてくれれば、すぐに終わりますよと言われ、出荷前の新作のギターを試奏しながら待っていた。この新作の印象がとてもよかった。社会人になって数年経ち、多少の蓄えも出来て、よいギターを欲しいと思っていた時期でもあった。修理が終わったあと敏彦さんと話をしているうちに、ぼくは新作の注文を決めた。2ヶ月ほどで出来上がる予定だったが、たまたま敏彦さんがそれまでいた所沢から父阪蔵の工房であった中野の家へ転居する時期に重なったこともあって、注文品が出来上がったのは、その年1983年12月になった。暮れも押し詰まったある日、JR中野駅から歩いて10分ほどの工房に着くと、当時の最高グレード50号の新作5本が並んでいた。その中から選んだ1本がこのギターである。
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表面板はドイツ松、横裏板はハカランダ。いずれも見事な材料で、特に横裏のハカランダは、昨今では滅多に見ることが出来ない最上級のブラジリアン・ローズウッドだ。ヘッドデザインは敏彦さんが60年代の終わりに渡欧して教えを受けた、名工エルナンデス・イ・アグアドのデザインが使われている。各部の工作精度も完璧だ。がしかし、このギターを手に入れた頃から、ぼくのサラリーマン生活も佳境に入り仕事に追われる毎日となった。そのためこのギターは、出来上がりから20年近くの間、あまり弾かれることなく、ケースの中で眠る日々が続いた。月日が経って2000年を過ぎた頃から再びギターを弾き始めたぼくは、この中出ギターを取り出しては、こんなに冴えない音だったかと、首をかしげるばかりだった。いい材料使っているのに…。
そんな中出ギターの音が変わり始めたのはここ3年ほどのことだ。何より眠たい音だなあと感じていた高音の反応がよくなってきた。中高音の鳴りは十分だ。和音の分離も悪くない。張りは柔らかく、軽いタッチにも敏感に反応して、音がよく抜けてくる。ウルフトーンはちょうどAにあるが、コントロールしづらいほどではない。惜しむらくは低音域、6弦の4フレット以下の低音の力が不足する。この領域がたっぷりと鳴る田邊ギターとは対照的だ。これはウルフトーンを高めに設定したギターの宿命で、両立は難しいのだろう。反面、6弦の7~12フレットの領域も音の詰りは少ない。音色としては、端正で古典的雰囲気の田邊ギターの対して、より華やかで明るい印象であるが、艶やかで粘りがあるというよりは、軽やかに良く鳴るというイメージだ。
ぼくが所属しているサークルの女性メンバーYさんが2003年作30号(松・インディアンローズ)の敏彦さんの楽器を使っている。練習熱心な彼女の中出ギターは、そろそろフレット交換が必要なほど弾きこまれていて、全音域でよく鳴っている。ボディサイズも私の作品が製作された頃より胴の厚みがいくらか大きめで低音も豊かだ。結果として私の1983年製より音全体のバランスがいい。1932年生まれの敏彦さんは今年78歳。先日電話で話をしたら、80歳で引退するまでに手持ちの良材を使い切って、よいギターを作っていきたいと、以前と変わらない元気な声で話しておられた。仕事の手が速く、夜や休日もいとわず製作に取り組む敏彦さんは、製作本数も多い。世には、寡作でないと価値が低いような風潮もときにあるが、そう勿体ぶるものいかがなものか。敏彦さんにはこれからもどんどん良い楽器を作ってほしいと思う。
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