きょう11月30日が命日 フルトヴェングラーのシューマン交響曲第4番を聴く
ぼくが子供の頃、ひと月の日数が31日以外の月を「西向く侍(二・四・六・九・士=十と一)」と覚えたものだが、今どきはどうなのだろう。その侍の月もきょうで終わり明日から師が走る月だ。あっという間に今年も終わる。
さて、きょう11月30日はウィルヘルム・フルトヴェングラーの命日だそうだ。享年68歳。1954年11月30日、ぼくが生まれた二十日ほどあとに亡くなったことになる。今更彼についてぼくなどが語る余地もないので、今夜はせめてレコードを聴いて彼を偲ぼう。フルトヴェングラーには、ぼくも学生時代に少々入れあげたが、幸い幾多の同音異盤や海賊盤に手を染めることもなく、ごく普通のクラシックファンとしてのフルトヴェングラー熱の域を出ず現在に至った。フルトヴェングラーならベートーヴェンやブラームスがまず最初に浮かぶが、手元にある何枚かの盤から選んだのは、ご覧のシューマンの第四交響曲だ。1953年5月、亡くなる1年前の録音である。

シューマンは交響曲を4曲残しているが、ときとして専門家からは管弦楽手法の未熟さが指摘される。確かにベートーヴェンやブラームスのように限られたモチーフを有効に発展させて曲を構成するといった、計算された設計図といった面で見劣りしなくもない。しかし現代の優れたマエストロ達が楽譜に多少手を入れ、慎重に楽器間のバランスを取って演奏するシューマンを聴く限り、まさに「交響」としての管弦楽の響きや、数々の魅力的なモティーフなど、4曲の交響曲が他の独墺系作曲家の交響曲に大きく見劣りするようには聴こえない。実際、カラヤン、ベーム、バーンスタイン、クーベリック、セル他、歴代の多くの名指揮者がシューマンの交響曲全曲の録音を残している。
フルトヴェングラーと手兵ベルリンフィルとのシューマンは、ぼくらが「ドイツ的」と聞いてイメージする曲想をことごとく具現化していく。深く尾を引くアインザッツ。シュバルツヴァルトを思い起こす重く、暗く、うっそうした音色。そうしたものを身体の芯から覚えているであろうベルリンフィルをフルトヴェングラーがドライブする。悠揚たるテンポを基本にピアニシモから湧き上がるように息の長いフレーズを奏でる弦楽器群。第1楽章からぞくぞくとする感興の連続だ。第2楽章冒頭のオーボエや終盤のヴァイオリンソロの寂寥感も胸を締め付けられるほどだ。第3楽章スケツツォも重い足取りながら、トゥッティのヴァイオリン群の切れは素晴らしい響きだ。圧巻は終楽章だ。アチェルランドしながら曲を高揚させ、ピークに達したあと、ぐっとテンポを落とすときのカタルシス。一気呵成に走り抜けるコーダ。全4楽章を一気に聴いてしまった。
ベルリン・イエスキリスト教会でのこの録音は、ライブ以外の彼のセッション録音中、最高の出来ともいわれている。モノラルながら録音状態も良好だ。ここでは彼の名前からイメージする即興的かつ熱狂的な展開は影を潜めて、代わって落ち着きとすべてを高見から俯瞰するような冷静も併せ持つ。それゆえに、却って音楽は雄大かつ深く響く。第2次大戦終戦から8年たったこともあるだろうし、亡くなる前年の演奏であることも影響しているだろう。久しくフルトヴェングラーを聴くこともなかったが、今夜このシューマンを聴いて、あらためてその素晴らしさを実感し、手元の盤を聴き直したくなってきた。
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